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中川浩 学研の敏腕編集長の大改革とは?科学誌は売れないという定説を覆した人物!
4/25 (Thu) フジテレビ 19:57 ~ 21:00 奇跡体験!アンビリバボー【奇跡呼ばれた科学本】
番組概要
日本の礎を作った熱き男たち!子供たちにワクワクを!さらに未来の日本のために慣習を破るキテレツ発想で次々と障壁をクリア!奇跡の300万部超え!
今回のアンビリバボーで紹介されるのは、学研の雑誌『科学の教室』をコペルニクス的発想の大転換で大復活させ、大ヒットへと導いた当時36歳の若き編集長、中川浩率いる仲間たちの奮闘記です。
一体、どんな驚きのアイデアで、毎月廃刊が検討される崖っぷちの雑誌を蘇らせ、奇跡の300万部超えを果たしたのでしょうか。
そのアンビリバボーなストーリーを見て行きましょう。
崖っぷちだった雑誌「科学の教室」
1960年代、日本が高度経済成長期真っただ中、学研は科学がこれからの日本を創ると信じ、雑誌『科学の教室』に奮闘している部署がありました。
しかし、雑誌は全く売れず、売り上げ部数は2-3万部がほぼ定着し、毎月の会議で廃刊がささやかれるまさに崖っぷちの雑誌でした。
続刊か廃刊の瀬戸際に、オーナー社長が任せてみようと送り込んできたのが中川浩さんでした。
中川浩 変人編集長現る
そこに現れたのが、中川浩さん。当時、まだ36歳の若き編集長でした。
中川浩さんは、学研の稼ぎ頭であった「三年の学習」「四年の学習」の総括編集長を務め、200万部の大ヒットとなった月刊誌『学習』の編集長を務めていた敏腕編集長で、廃刊寸前の部署に人事異動するのは本人も納得がいっていなかったようです。
中川さんは普段は口数が少なく、丁寧な話し方ですが、こと編集に関わると一変。鬼の様に怒り狂うこともあり、「科学の教室」の担当部署も困惑していました。
印刷物を印刷し、本屋を通して読者に届ける出版会社に身を置きながら、「印刷物にこだわるな」と言い出す人です。
一見、クレイジーに聞こえますが、もちろん、そこにはちゃんとした理由があります。
子どもに本当の「科学の世界」の不思議さ、面白さを伝えようとしたら、本だけでは無理だ。
” ―― 学研の科学50年史より”
中川浩さんはただ読むだけの内容ならば、あぁそういうものか。で終わってしまうと考え、子供たちに科学を実体験できる材料を与えていこうと考えたのです。
「科学の教室」は子供が家で読む教科書ではなく雑誌であることを強調し、これまでのやり方は「まったく面白くない!」と全否定。
部員たちが寝ずに書いた企画書を次々と却下していきました。
発想の転換
こうして、中川さんによる厳しい改革が始まりました。
それまで、「科学の教室」は上級・中級・初級に分かれていましたが、子供の成長は著しく、学年によって能力が大きく変わります。
学研の稼ぎ頭「学習」と同様、一年から六年の学年別で6誌体制へ変更することを考えました。
「学習」と「科学」がそれぞれ学年別になることで、「学習」の売り上げに影響するのではないかという大きな懸念と反発がありましたが、中川さんは失敗したら潔く退職すると覚悟してこの大きな改革に挑んだそうです。
「科学の教室」新体制
6誌に6名の個性的な編集長が決まり、プラス2名が新体制「科学の教室」を担当することになりました。
6名中3名は科学とは無縁でしたが、それが逆に理系出身者では当たり前の知識にも疑問を持つ視点が生まれ、良かったそうです。
それぞれの担当者がこちら。
1年のかがく
教育大卒の花田浩一さんは美術専攻で感性豊か
2年のかがく
水橋晋さんは詩人として有名で、著書に、「詩集 共棲変夢」があります。慶応大卒。科学オンチを自称しますが、のちに「よい子の科学」を創刊しました。
斉藤洋三さんは早稲田卒で、中川編集長の秘蔵っ子。考え抜いて企画を練る慎重なタイプで、誌面には深みがありました。
3年の科学
秋本孝三さんは冷静で人望が厚く、科学誌躍進に最大の貢献者の一人です。学生時代に児童向けの人形劇に携わり、脚本・演出しました。
4年の科学
梅沢正さんは埼玉大卒で理系出身。自由な発想で子供に夢を与えるような誌面構成が得意でした。
5年の科学
金井康彦さんは東京学芸大卒で、学者肌。構成力が素晴らしく、辞典や図鑑の編集で中心的人物でした。
渋谷一夫さんは東京理科大卒で学習編集部で中川編集長に鍛えられた人物。科学部門希望で、緻密な性格で「安全審査室」を立ち上げ安全性を立証を記録した伝説の「渋谷メモ」を作成。
6年の科学
根本行康さんは早稲田大学卒で、学研の科学誌の草分け「たのしい科学」の創刊に携わった情熱家。
こうして、6誌体制を強引に進め、個性的な人選で改革を進めましたが、結果はすぐにはついてきませんでした。
売れ筋の「学習」は国語・算数を中心に理科・社会までカバーするマルチさに対し、「科学」は理科のみ。
学校の成績を上げたい親にとっても「学習」の方がコスパが良いイメージがぬぐえません。
「子供たちに、科学の世界での実体験を」と言われても、実際の担当者は編集者。
しかも、百数十円の定価でどうやって顕微鏡や試験鏡を作れるのか・・・雑誌の売上は相変わらずで、まさに八方ふさがりでした。
限られた予算内で何ができるか
現定価の中でどの程度の誌面と付録を付けられるのか?読者にどうやって雑誌と付録を運ぶのか?が最大のテーマでした。
虫メガネや拡大鏡、試験管にリトマス紙など子供に与えたいものは次々に浮かんできますが、現実的ではありませんでした。
そんな時に自分の子供たちが夢中になって遊んでいたおもちゃがふと目に入りました。駄菓子屋で売られているちゃちなおもちゃでしたが、可能性を感じました。
ちなみに、中川さんは3人の息子さんがいて、長男は理作君、次男は研作君と名づけています。
二人合わせて「理研」です。中川さんが尊敬していた朝永振一郎さんが理化学研究所に一時在籍していたことから名付けたのだそうです。科学に縁があったのですね。
駄菓子屋さんを渡り歩き、足しげく通ううちに業者やメーカー、問屋などの人とも知り合いになり、仕組みも見えてきました。
小さな企業で信頼性に不安はありましたが実現可能だと確信しました。
特運は無理、どう運ぶのか
当時、「学習」は特運と呼ばれる旧国鉄(現JR)の特別割引運賃で雑誌を全国に届けていました。
これは国鉄が損覚悟で文化向上のために協力しているシステムで、多くの制約があり、担当者が足しげく通い、やっと手に入れる事ができる権利です。
壊れやすい付録がついたものを、特運で運ぶことは現実的ではありませんでした。
しかし、当時は長距離輸送トラックはまだ始まったばかりで僻地への配達には不向きでした。
配送のシステムについて詳しくない中川さんは、発想部門担当の役員、小林幾蔵さんに頼ることにしました。
特運はずし、流通システム大改革
当時、国鉄の特運を外し、輸送することは考えられないことでしたが、今後は鉄道に頼らなくてもトラックや飛行機などの輸送が主流になると考え、特運をあえて止め、付録に制約のないトラック輸送にしたことが科学誌躍進の最大の要因になったと中川さんは後に語っています。
付録を制作することも、輸送も全てが初めての事業で未知数で決済が下りるのにも多くの時間と説得が必要になりました。
3年分の付録プランを作り、「科学」が売れれば、「学習」の売り上げが下がるというマインドを修正すべく関西の商魂を頼り、「右手に学習長、左手に科学」というキャッチコピーで新制「科学」を売り出し、大ヒットとなりました。
歴史と共に、世の中は安全性がより重視されるようになり、事故に関する問い合わせやクレームが入るようになりました。
「安全審査室」が立ち上げられ、売り上げ部数が上がるにつれ多くの義務と責任も伴い難しさは増していきます。
こうして、年に12回発行のふろく付き学年誌「1~6年の科学」がスタートしたのは、東京オリンピック目前の1963年4月から、難題に立ち向かいながら、子供たちに感動とワクワクを与え続けました。
最盛期には「科学」と「学習」合わせて670万部という驚異的な発行部数を記録しましたが、2010年に惜しまれつつ休刊となりました。
懐かしの科学のふろくを、年度別に紹介しているページがあります。こちらをご覧ください。
科学のふろくギャラリー
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