目次-読みたいページに移動できます-
大久保武道(おおくぼたけみち)と愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)の純愛が起こした悲劇?爆報!THEフライデー
12/1 (金) 19:00 ~ 20:00 毎日放送 爆報!THEフライデー ラストエンペラーの姪と田舎の青年 身分の違う2人の恋の悲しき結末「天城山心中事件」事件から60年 プリンセスの妹から歴史を覆す新証言が!で天城山心中事件の新事実が放送されるということですが、一体どんな事件だったのでしょうか?調べてみました!
愛新覚羅 慧生(あいしんかくら えいせい)とは?
大清国第12代にして最後の皇帝、その生涯を題材にした映画「ラストエンペラー」の主人公とされる愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)の実弟溥傑の長女(姪にあたる)。
愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)は大満洲帝国の崩壊とともに退位し、赤軍の捕虜となって中華人民共和国に引き渡され、釈放後は一市民として北京植物園に勤務、晩年には満州族の代表として選出された。遜帝、末代皇帝(末帝)、唯一火葬された皇帝のため「火龍(龍は皇帝を指す)」とも呼ばれる。
愛新覚羅慧生のwikiプロフィールや写真
【中古】 愛新覚羅浩の生涯 昭和の貴婦人 中公文庫/渡辺みどり【著】
名前:愛新覚羅慧生 あいしんかくらえいせい
父溥傑と母浩夫人と慧生(1938年)
出生: 1938年(昭和13年)2月26日
死去: 1957年(昭和32年)12月4日頃 19歳
出身地: 満州国新京市(現・長春市)
繁体字: 愛新覚羅慧生
和名表記: あいしんかくら えいせい
発音転記: アイシンジュエルオ フイシェン
●幼少期を満州国で過ごす
●日中ハーフのプリンセス
●1943年(昭和18年)の春、学習院幼稚園入学
●妹の睆生は姉・慧生のことを「ユーモラスで頭の良い人なのですが、威厳というか気品があり、姉妹といえども近付き難いところがありました」と語っている
●神奈川県横浜市港北区(日吉)にある母の実家の嵯峨家で暮らす
●音楽に関心があり、ピアノやヴァイオリンを習っていた
●4歳になる頃、皇帝からピアノをプレゼントされた
●1943年父が陸軍大学校に入学する関係で父母や妹が東京に来たため、一家で麻布狸穴で生活
●1944年12月陸軍大学校を卒業し、父母や妹は新京へ戻るが慧生は通学のため日吉で暮らす
●1945年(昭和20年)日本の降伏。満州国は解体、父はソビエト連邦と中華人民共和国で1960年まで獄中生活を強いられる
●慧生は学習院初等科・学習院女子中等科・学習院女子高等科へ進学
●中等科から中国語の勉強を始め獄中の父へ中国語で手紙を書く
●高等科の3年の時に東京大学の中国哲学科への進学を希望するが、親類の反対で断念
●1956年(昭和31年)、学習院大学文学部国文科に入学、同じ学科の大久保武道と出会い交際に発展
●慧生は美しく社交的で快活、いつも学内の中心にいる存在で日中の架け橋になりたいと夢を語っていた
大久保武道(くぼたけみち)とは?
●青森県八戸市出身
●父親は南部鉄道役員を務め八戸の漁具問屋の経営も行う裕福な家庭
●1956年(昭和31年)、学習院大学文学部国文科に入学のため上京
●丸坊主で学生帽を被り、性格は質実剛健、猪突猛進、愚直
●都会的で洗練された学習院大の学生の中では浮いていた
●訛りを気にして話せずクラスで孤立していた大久保武道に慧生は優しく接した
天城山心中事件(あまぎさんしんじゅう)とは?
1956年
田舎出身の大久保武道と上流階級の生活を送っていた慧生が出逢ったのは学習院大学で同じ国文科に入学した1956年のことでした。慧生はいわゆるお嬢様で容姿も美しく教養も備わり男子学生の華の様な存在でした。
一方、大久保武道は田舎出身の真面目で地味な学生。慧生が孤立している大久保武道を気に掛ける関係からいつしか恋愛関係へと発展していきます。ある日、慧生を自宅まで送り届けた大久保の様子を見た慧生の家族は、大久保の風体から2人の交際に猛反対をします。
ますます慧生は家族に打ち明ける事が出来なくなり隠しながらも交際関係を続けます。大久保は「命がけ」という言葉をよく使い、「ごまかしながら生きるより、清く死を選ぶ」と「死」に対する衝動があったとされています。そして、今でいうストーカー気質も垣間見えます。
1956年11月
それは、もともと身体が弱い慧生が体調を崩し学校を休んでいた時のこと。大久保は見舞いに訪れ、面会を断られても1日中応接室から動こうとしない。その極端な態度に慧生の祖母が警戒し、彼との交際を厳しく禁じたそうです。
1956年12月
家族の猛反対を受け慧生の心は揺れます。大久保は慧生への思いを断ち切る為、青森の実家へ戻り、断髪して座禅を組み断食修行を行いました。絶縁状を受け取った慧生は、気持ちが大久保へと戻ってしまい、毎日のように大久保に手紙を送ります。大久保はその手紙を読んで喜びます。すぐに東京に戻って嵯峨家を訪れますが、再び面会を断られ一筆書いたのみで会う事が出来ずに帰宅しました。
1957年2月
2人は蕎麦屋で長時間語り合った後、なんと「婚約」を決めるのです。出会いから1年も経たないでしょうか。しかし、友人達の猛反対にもあい冷静さを取り戻した慧生は婚約解消を持ち出しますが大久保はその度に衝動的になり自暴自棄となり強く出る事ができませんでした。慧生は家族に知られない様、手紙の交換も細かなルールを決め行っていました。
1957年7月
2人は、将来のための貯蓄を始めることにしました。大久保はアルバイトで貯めたお金を毎月慧生に渡していました。この間は慧生もスキーに行ったり学生生活を謳歌していたと推測される手紙などが確認されています。
1957年10月末頃
大久保はセックスに関する悩みを友人に相談していたそうです。大久保の父親が愛人に子供を産ませており、その血が自分にも流れている事を悩んでいたというのです。
1957年11月
秘密にしていた大久保との婚約を慧生に思いを寄せる男子学生が明らかにしてしまいます。再び慧生は体調を崩してしまいます。しかし、大久保と毎月の貯金を一緒に行く約束をしている様子から死を考えていたとは読み取れない
1957年12月1日
慧生の自宅に大久保だと思われる男から電話があり、「いらしていただいても困ります!」と慧生が珍しく声を荒げて取り乱している様子が確認されている。しかし、その夕方に「自由が丘まで行く」と言い外出
1957年12月2日
慧生から発せられた3つのSOS
その① 親友の「オサト」にバッグから取り出した拳銃を見せ「大久保君が青森のご実家から持ち出されたものなの。『この銃で自殺する』とおっしゃって。わたくし一生懸命説得してお預かりしましたのよ」と落ち着いた口調で話したと言います。
その② もう1人の親友「木下」も銃を見せられたが普段から問題が多かった為あまり重要視しなかった
その③ この前後にも慧生は大久保が入寮していた学生寮の寮監で、大久保の父の旧友でもあった「穂積」に電話を入れているが、風邪で休んでおり、対応した穂積の妻に「大久保さんが近頃・・」と言いかけたまま電話は切れてしまった
1957年12月3日
オサトは慧生に拳銃の事について念を押すも鈍い反応だったが、その他は特に変わった様子がなかったので普通に別れた
1957年12月4日
慧生は普段通りに大学へ行き、午前中に学生達から姿を目撃されている。午後7時頃になっても慧生が家に戻らない事から、家族が思い当たるところに電話をかけ探し始める
1957年12月5日
寮の穂積先生の元に慧生から最後の手紙が届く。大久保と同室の寮生から、2日前に身辺整理をしていた事、伊豆の地図を見ていた証言が出る。また秋には大久保が1人で伊豆へ旅行していた事も確認
1957年12月6日
朝から寮生たちが伊豆方面に捜索に向かう
1957年12月7日
「男友達に同情して“プリンセス”心中行ー元満州国皇帝のメイ家出」という見出しなどで記事が出る
1957年12月8日
2人の足跡が八丁池方面三つ叉道付近で発見される。大久保家と嵯峨家の領家で話し合いがもたれ2人に関する一切を穂積に一任し、穂積は新聞・ラジオを通じて「姿を現せば2人の交際を認める」と呼びかけた
12月9日
伊豆に残った学生らが樹木の古株の中で着替えや靴などの遺留品を発見
12月10日
午前9時半頃、天城山頂トンネル入り口から八丁池へ登るコースを登った雑木林の中で、地元消防団員が2人の遺体を発見。凶器に使われた銃は大久保の右手に握られ、慧生の遺体は左こめかみに銃弾の穴があり、右利きの彼女は明らかに撃たれて死亡と判断され、死亡診断書には「他殺。銃弾による頭部貫通」と記されました。大久保が握りしめていた銃は、父親が満州で憲兵をしていた時代のものだったそうです。
慧生から穂積先生への手紙
慧生は穂積先生へ手紙を残しています。12月4日の午前8時頃に学生寮の穂積宛に記し、その日の午後に投函したと推測されています。
なにも残さないつもりでしたが、先生(穂積)には気がすまないので筆をとりました。大久保さんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。二日の日も長い間大久保さんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純で大久保さんの考えの方が正しいという結論に達しました。
それでも私は何とかして大久保さんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私が大久保さんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。また私と大久保さんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です
番組で証言された新事実
今回登場したのは、慧生の2歳下の実の妹、そして親友、そして遺体を発見した男性でした。悲恋の純愛物語としてセンセーショナルに報じられ死体は大久保が腕枕をするように寄り添っていたと報じられていました。しかし、事実は慧生が木に寄りかかり、大久保は少し離れた状態で倒れていたといいます。
そして、妹は慧生が来年の抱負を書いた年賀状を机に書きっぱなしで出て行った状態であったこと、また新しいコートを買ったばかりで楽しみに待っていたことなどから死にたいとは全く思っていなかったと確信しています。親友も前日に電話で話をし死ぬ兆候など感じられなかったと証言しています。
まとめ
純愛物語として書籍や映画などの作品にされていますが真相は一体どうだったのでしょうか。もともと思いつめるタイプで死んでしまいたいという衝動が深層心理にあったとみられる大久保武道。東京大学哲学科へ進学したいと思うほど哲学への関心があったと見受けられる慧生。
大久保の影響で、物事を深く追求し考えこんでしまう思考へとどんどん向かって行ってしまったのでしょう。負の力は陽の力を大きく呑み込んでしまいます。大久保を理解してあげたい、救ってあげたいという優しい陽の気持ちが、どす黒く深い闇に覆われた大久保の負の力に飲み込まれてしまったのでしょう。「一般の人にはおそらく理解していただけないと思います」と記しているところは一体どういう気持ちだったのでしょうか・・・
衝撃的なのは、家柄がいいと思われていましたが実際は敗戦で父親は投獄され、母方の皇族の位もはく奪され、慧生の家は実はとても貧しく、鉛筆を買うのも遠慮するぐらい質素な暮らしぶりだったといいます。そしてそこに家柄の差などなく、結婚しようと思えば出来た状態だったと妹は証言しています。実際、妹が結婚した相手も一般の男性で普通の人だったそう・・・実際、大久保の家は裕福で、あの時代に学習院大学へ青森からやれるぐらいの経済力はあったのです。少し反対されたぐらいで、死ぬという究極の結論に至った大久保の精神の儚さと、ラストエンペラーの血を引いているというプライドが、明るかったかもしれない若い2人の未来を一瞬で取返しのつかない方向へ向かわせてしまった事が残念でなりません。