藤井郁美(ふじいいくみ)車いすバスケ選手の年齢や経歴wikiプロフィールやインスタ画像は?アンビリバボー

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藤井郁美 大病を3度乗り越えた奇跡の美女アスリートが凄い!目指せ2020年の東京パラリンピック!田久保郁美という名前がある理由

 

2019/3/7 (Thu) 関西テレビ 19:57 ~ 20:54 奇跡体験!アンビリバボー【人生は挑戦の連続SP】

 

番組概要
仰天チャレンジSP世界の超絶技の大集合▽走る列車の上で連続ダンクシュート▽時速120キロで空中合体する男たち▽大病を3度乗り越えた奇跡の美女アスリート

 

藤井郁美 wikiプロフィールやインスタ画像

名前:藤井郁美(旧姓は井上)

名前の読み方:ふじい いくみ

生年月日:1982年11月2日

現在の年齢:36歳

出身:神奈川県 横浜市

所属チーム歴
女子チーム:WING→現在SCRATCH
男子チーム:現在宮城MAX

 

藤井郁美 バスケットボールとの出会い

郁美さんがバスケを始めたのは小学3年生の時からだそうです。はじめはミニバスケットボールでした。

 

郁美さんはとても才能があり、中学の頃にはキャプテンとして活躍し、強豪校からの推薦を貰うほどの選手に成長していました。

 

そんな中学3年生の頃、郁美さんに病魔が襲い掛かります。

 

藤井郁美 1度目の病気

藤井郁美さんはこれまで大病を3回されているのですが、一番最初に発症したのは中学三年生の時でした。

 

右ヒザに痛みを感じ、病院で検査してもらうとそのまま癌センターへ直行させられたのだそうです。

 

病気は、悪性の骨肉腫でした。右脚のひざと、大腿の一部を切断し、ひざが人工関節になりました。

 

すぐに抗癌治療に入り、1年間もの間、苦しい治療を頑張ったそうです。

 

1年遅れで別の高校に進学

推薦をもらっていた高校へは進学できませんでした。医師からは歩くことは出来るけれど、走ったりバスケットボールはもうできないと言われたそうです。

 

高校に進学し、自分がバスケットをしていたことを知っている同級生にバスケ部で自分たちのプレーを見てほしいと声をかけられました。

 

まだそんな気持ちにはなれなかった藤井さんですが、気が向いたらいつでも来てと、無理強いせず気長に待ってくれていたので、マネジャーとして入部することにしたそうです。

 

そこでは、練習メニューを組むなどコーチ的な役割も果たしていたそうです。

 

参加するうちに、郁美さんは新たな目標を見つけました。やっぱりスポーツが好きだと気づき、将来はスポーツトレーナーや教員という道もいいなぁと思い始めたそうです。

 

しかし、そんな希望を見つけた郁美さんに更なる異変が起こりました。

 

藤井郁美 2度目の病気

それは高校三年生の19歳の春でした。郁美さんは原因不明の倦怠感と食欲不振に悩まされていました。

 

下血を繰り返し、体重が数週間で10㎏ほど落ちたそうです。ただ事ではないのではと病院に行くのが怖くてしばらく我慢していましたが、ある日、救急車で運ばれました。

 

病名は潰瘍性大腸炎でした。この時、郁美さんは大腸を全摘出する大手術を行い長期の入院を強いられました。

 

せっかく見つけた新しい希望も空しく振り出しに戻ってしまいました。

 

高校卒業後

入院生活を終え、郁美さんは高校を無事に卒業しました。

 

卒業後はスポーツジムで受け付けのアルバイトをし、目標のない生活を送っていました。そんなある日、郁美さんはふとある事を思い出したそうです。

 

それは、高校の男子バスケ部の顧問の先生が神奈川県の車いすバスケットボールコーチを兼任していて、先生から車椅子バスケットボールを勧められた事でした。

 

車椅子バスケとの出会い

車椅子バスケのルールは「2回こぐ間に一度ドリブルをしなければいけない」という以外、大半のルールは普通のバスケットボールと同じです。

 

その他に、車椅子バスケは故意とみなされなければ、激しいプレーも反則とならなかったり、リングも3m5㎝の高さで、車椅子の場合は膝が使えないため腕力がなければ難しい点、車椅子を漕いだり、回転したり車椅子の操作にも相当な腕力とテクニックが必要とされます。

 

このため、郁美さんは高校の先生から車椅子バスケのチームを紹介してもらった当時、あまり興味を持てなかったそうです。

 

車椅子バスケに本気になる

しかし、時間を持て余していた郁美さんはその時、軽い気持ちで再びやってみようと思ったのです。

 

しばらく練習に参加するうちに、郁美さんの技術はかなり上達しました。

 

チームメイトから、女子のチームに入ったら日の丸を付けられるよ!と軽いノリで言われ、そういう道もあるのだとその気になったのだそうです。

 

早速、郁美さんは神奈川県の女子チームに入ることにしました。

 

こうして車椅子バスケを本格的に開始したのは20歳の頃、その神奈川のチームには5年ぐらい所属しました。

 

日本代表メンバー入り

2005年、車椅子バスケを初めてわずか3年で郁美さんは日本代表メンバーに入りました。

 

そして、翌年の2006年、日本代表はにアムステルダムで行われた世界選手権大会に出場しましたが、結果は6位と惨敗に帰することになりました。

 

郁美さんは世界で戦うには圧倒的に実力が足りないと実感したそうです。

 

そして郁美さんはとんでもない行動に出ました。

 

日本代表の監督を務めていた宮城MAXの岩佐義明監督の指導を受けるため、宮城県への移住を決意したのです。

 

宮城MAXとは?

宮城MAXは国内最強の車椅子バスケの男子チームでした。日本では男女でチームは分かれていましたが、海外では男女混合が当たり前。実力に差が出るのは当然の結果でした。

 

しかし当時の日本は、選手権で女子が男子のチームに混じって試合に出る事は認められていませんでした。

 

郁美さんは、練習だけだと甘えにつながるため、選手権以外の試合はレギュラー入りを目指して男子選手と同等に戦い、頑張りたいと監督にお願いしたそうです。

 

今まで、岩佐義明監督率いる宮城マックスの練習風景を見たことがあった郁美さんは、障がい者、健常者関係なく遠慮なく指導する岩佐監督の指導がとても新鮮に映ったそうです。

 

25歳で宮城に移住

岩佐義明監督は、郁美さんの心意気を買い、チーム入りを了承しました。

 

そして、2007年、郁美さんは男子選手主体のチーム、宮城MAX(みやぎマックス)へ入るために神奈川から宮城へ単身引っ越ししました。

 

この時、一部関係者から批判もあったそうです。日本一のチームに入っても、どうせ試合に出られないでしょうとまだ始めてもいない状況で心ないことを言われたそうです。

 

最初は練習についていけない郁美さんでしがた天性の負けず嫌い。チームメイトは郁美さんの事を女子とは扱わず、ライバル選手としてフェアに扱い、練習でも激しくぶつかってきたそうです。

 

功を奏し、郁美さんはやがて女子日本代表の主力選手としてぐんぐんと実力をあげました。

 

郁美さんはこの頃、プライベートでも大きな転機を迎えました。