北室南苑(きたむろなんえん)の陽明丸と800人の子供たちが凄い!茅原基治と勝田銀次郎が起こした奇跡体験!アンビリバボー!オルガさん

勝田銀次郎(かつだぎんじろう)と茅原基治(かやはらもとじ)がロシアの800人の子供を救う!オルガさんとは?wiki風プロフィールや画像あり

11/30 (木) 19:57 ~ 20:54 奇跡体験!アンビリバボーロシアの子供800人を救った歴史に埋もれた日本人!勇気ある決断!成功しても誰からも賞賛されない命がけ任務!で茅原基治(かやはらもとじ)さんと勝田銀次郎(かつだぎんじろう)さんが紹介されます。一体どんな事をしたのでしょうか?北室南苑とは?日本にやってきたオルガ・モルキナさんとは一体誰?

まずはお二人のプロフィールはこちら

勝田銀次郎(かつだぎんじろう)のプロフィールや経歴

名前:勝田銀次郎 かつだぎんじろう

生年月日:1873年10月1日-1952年4月24日

職業:日本の政治家、実業家

出身地:愛媛県出身

●1873年愛媛県で米穀商の長男として生まれる

●中学卒業前に父親を亡くし、一旗揚げるために19歳の時に北海道へ移住しようとした道中、東京英和学校(現・青山学院)校長の本多庸一外国語の大切さを説かれ同校予備学部に入学

●卒業後は、海運業へ

●勝田商会創業者。27歳の時に独立し、貿易会社「勝田商会」を設立

●山下亀三郎、内田信也と並ぶ「三大船成金」の一人

●神戸市会議員、衆議院議員、貴族院議員、第8代神戸市長

●準戦時体制下の神戸市政を担い「鉄腕市長」と呼ばれた

茅原基治(かやはらもとじ)のプロフィールや経歴

名前:茅原 基治 かやはら もとじ

生年月日:

職業:日本の航海士・船長

出身地:岡山県笠岡市

●日本の航海士・船長

●墓は笠岡市にあり、岡山県に親戚がいる

ロシアと800人の子供?

1918年 ロシア革命

ロシア革命がおこり、ペトログラード(1914年から24年までのロシア西部の都市サンクトペテルブルクの呼称)は革命により治安が悪化し深刻な食糧不足に陥っていました。そこで親たちは内戦から逃れるため子供たちを遠く離れた田舎ウラル地方へ疎開させることに。

子供の年齢は4歳から18歳ぐらいまででアメリカ赤十字社によってかくまわれていましたがまだ避難した田舎町にも戦火が襲い、幼い子供たちは安全ではなく、難民のような状態でした。

ロシア革命とは

帝政ロシア(ロシア帝国)にて1917年に起きた2度の革命、3月革命と11月革命のことを指します。このロシア革命によって帝政ロシアは崩壊。その後、ロシアは世界初の社会主義国を樹立

さらなる救出作戦

疎開先も安全ではなく、さらなる救出作戦が必要でした。それは、一旦ロシアを離れ子供たちを故郷ペトログラードに近い安全なヨーロッパへ海路で移送し、その後ロシアの混乱が落ち着いたのを見計らい親元に帰すという計画でした。

米国赤十字はアメリカ、イギリス、フランスなどの関係各国の船舶会社に難民800人の救助を要請しますが、どの船舶会社の返事も前向きではありませんでした。理由は、資本主義を掲げる各国はロシア革命により新たな社会主義を掲げるロシアに脅威を感じ敵対していたからです。

世界中のどの国の会社も子供たちの移送を引き受けてはくれませんでした。アメリカ、イギリス、フランスなど資本主義を掲げる各国はロシア革命により新たな社会主義を掲げるロシアに脅威を感じ敵対していたからです。そんな中、米国赤十字は最後の望みをかけ子供たちの移送の依頼を日本の海運会社にも送りました。その中の一つが勝田銀次郎さんの会社でした。

1920年 勝田銀次郎のもとに部下が駆け込む

勝田銀次郎のもとに大変な申し出が来たと部下がやってきます。

内容は「ロシア革命で難民となった子供たちをロシアからヨーロッパまで船で運んでほしい。子どもの人数は800人です!」というものでした。

米国赤十字は最後の望みをかけ子供たちの移送救助要請を日本の海運会社にも送りました。その中の一つが勝田銀次郎さんの会社だったという訳です。

勝田銀次郎は悩みます。日露戦争が終結してから十数年が経ち、その他の国と同様、日本とロシアは敵対関係にあったからです。もし、引き受けたら日本中から非難を受け会社は倒産するだろうと思ったからです。

勝田氏の決断は「助ける」でした。しかし、問題がありました。

物資を運ぶ海運会社だったため、800人もの子供を寝泊りして運べる様な客船はなかったのです。そこで、会社で一番新しい『陽明丸』を客船に改造します。この社長の決断に反対する者は誰一人いなかったそうです。

陽明丸(ようめいまる)の改造

勝田氏は800人もの子供が長期間移動出来るよう洗面所・トイレ・寝室などを増築しました。陽明丸の改造費は会社のお金ではなく、その多くを勝田銀次郎さんが自らの私財を投げ打ち支払いました。その金額は現在の通貨価値で数千万円、通常なら1年はかかる大掛かりな改造でしたが、約1ヶ月という短期間で船を仕上げてしまいます。

しかし、新たな問題が・・・それは、誰が船長をするかという問題でした。

船長は誰に?

800人のロシア人の子供だけでも十分危険な職務でなおかつ当時のヨーロッパの海は第一次世界大戦中に仕掛けられた機雷が数多く残っていました。勝田氏は、様々な船乗りに船長を依頼しますがみんな乗船を拒否します。しかし、数々の航海の実績があり伝説の船長として名を馳せた人物「茅原基治」(かやはらもとじ)が名乗りを上げたのです。

1920年7月 陽明丸が神戸出航

1920年7月、陽明丸は神戸を出発し、無事、子供たちのいるロシアのウラジオストクに到着。子供たちを乗せて、ペトログラードに近いフィンランドへと向かいますが子供たちは日本人にどう接していいか分かりません。日露戦争の記憶がまだ残っていたのです。

茅原基治は子供たちと信頼関係を築きたいと思い、途中、日本へ寄港し日本のことを知ってもらおうと考えました。敵対関係にあったロシアの子供たちに上陸許可はもちろんありません。全ての責任は自分がとるという条件で何とか許可を得ます。そして、立ち寄ったのが・・・

北海道の室蘭へ寄港

日本上陸の許可された子供たちと向かったのは室蘭にある小学校でした。小学校の子供たちはロシアの子供たちを暖かく迎え入れ、言葉は通じずとも仲良くなるのに時間はかかりませんでした。

そして再びフィンランドに向け出発・・・

ここからは航海は厳しくなります。室蘭を出港した陽明丸のフィンランドへ向けて本格的な航海が始まりました。航海中、茅原氏は子供たちのためにハーモニカを演奏し、子供たちは踊ったり歌ったり楽しい時間を過ごしました。すっかり打ち解け、茅原氏は子供たちから「ニイサン」と呼ばれていました。

航行はサンフランシスコを経由しパナマへと南下を続けました。しかし、寒いロシア育ちの子供たちは赤道直下の暑さに苦しめられます。多くの子供たちが日射病で倒れてしまいましたが茅原氏が徹夜で看病した甲斐もあり皆快方に向かいました。

フィンランドに到着

陽明丸はようやくフィンランド近くまで到着しました。しかし、ここからが危険な航海。当時のヨーロッパの海は第一次世界大戦中に仕掛けられた機雷が数多く残っていました。それでも、フィンランドに子供たちを届けるためには、この航路しか選択肢がありません。細心の注意を払い、危険海域を進みました。

そして、命懸けの航海をはじめてから3ヶ月。ついにフィンランドに到着しました。その後、子供たちは無事に故郷ペトログラードへ戻り親との再会を果たします。

 

この命がけの救出作戦は

100年もの間

一切世に出ることはありませんでした

 

100年間知られていなかったその理由は?

その理由は、日本人乗組員が勝田銀次郎さんと茅原基治さんが非国民扱いされないよう固く口を閉ざしてきたからです。しかし、あるロシア人女性によってこの奇跡の救出作戦は世にでました。そう、この女性は陽明丸に乗っていた800人の子供だった祖父と祖母が結婚して生まれた孫だったのです。

ところがオルガさんはどうやって探していいか検討もつきません。唯一のキーワードは「カヤハラ」「ヨウメイマル」「ムロラン」。しかし、運命の出会いが起こったのです。オルガさんは北室(キタムロ)さんという日本人女性に出会います。

北室さんのムロは室蘭のムロと同じ発音。オルガさんは何か知っているのではと思い、北室さんに助けを求めました。そして、北室さんはその様子に圧倒され、話を聞き、茅原さんを探すことに協力することにしたのです。

簡単ではありませんでしたが、北原さんは2年の歳月をかけ茅原さんを探し当てました。茅原さんには子供がいませんでしたがお墓を守っている祖先を見つけることができたのです。このことがきっかけで、すっかり茅原基治と勝田銀次郎の奇跡の救出劇がライフワークとなってしまった北室さん、後に「陽明丸と800人の子供たち 日露米をつなぐ奇跡の救出作戦」という本を出版します。そして、森喜朗元首相はこの奇跡の出来事を聞き、プーチン大統領にも伝えたそうです。

そして、遂にオルガさんは2011年に日本にやってきて、オルガさんの祖父母の遺志を引継ぎ感謝を意を伝えることが出来ました。良かったですね。

北室南苑(きたむろなんえん)とは?

北室南苑さんは篆刻家(てんこくか)として、アートの世界を金沢で探求し約40年の旅を続けているそうです。

篆刻(てんこく)とは

篆刻(てんこく)とは、印章を作成すること。中国を起源としており、主に篆書を印文に彫ることから篆刻というが、その他の書体や図章の場合もある

また金属(銅・金など)を鋳造して印章を作成する場合も篆刻という。その鋳型に彫刻を要するからである。書と彫刻が結合した工芸美術としての側面が強く、特に文人の余技としての行為を指す。

現代でも中国・日本を中心に篆刻を趣味とする人は多い。

★公式ブログ⇒http://www.tenkoku.jpn.org/

◆◆陽明丸と800人の子供たち 日露米をつなぐ奇跡の救出作戦 / 北室南苑/編著 / 並木書房

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