高山良二元陸上自衛官がカンボジアへ渡り地雷除去をする理由やカンボジアで起こした奇跡とは?アンビリバボー

高山良二さんの本は?カンボジアの復興に尽力する日本人地雷処理専門家が凄い!

 

2019年6月13日に放送されたアンビリバボーでは元自衛官である高山良二さんがカンボジアで起こした奇跡についてでした。

 

一体、何が高山さんを駆り立て、危険な場所へと向かう事になったのでしょうか。

 

 

高山良二 wikiプロフィールやインスタ画像

名前:高山良二
名前の読み方:たかやま りょうじ
高山 良二は日本の地雷処理専門家、NPO法人 国際地雷処理・地域復興支援の会理事長、元陸上自衛官。カンボジア・バタンバン在住。元1等陸佐。 ウィキペディア
生年月日: 1947年 (年齢 72歳)

 

 

高山良二 経歴

高山良二さんは媛県北宇和郡三間町生まれで陸上自衛隊として36年間勤めました。

 

1992年から1993年にかけてPKO活動で初めてカンボジアに派遣された自衛官の1人でもあります。

 

2002年退官後に再びカンボジアへと渡り、地雷処理、不発弾処理に尽力し、現在はンボジア・バタンバン在住し、日本の地雷処理専門家で、NPO法人 国際地雷処理・地域復興支援の会(IMCCD)理事長として活動されています。

 

 

高山良二 カンボジアへ渡ったきっかけは?

高山さんがカンボジアへの想いを抱くようになったきっかけはPKOで派遣されたことがきっかけだったそうです。

 

1970年から22年間続いた内戦により今でも多くの不発弾や地雷が残されているカンボジアの現地で多くの子供が犠牲になっている過酷な現実を目の当たりにしたのです。

 

高山さんは陸上自衛隊施設科部隊に所属していました。この部隊は任務遂行のために必要な道路や橋などの施設を建設する部隊で、地雷・爆弾処理の高い技術を持っていました。

 

しかし、PKOの任務には建設ルート以外の地雷撤去という任務はなく、勝手に処理することができなかったそうです。

 

不甲斐ない思いをした高山さんはいつかこの様な活動をしたいとその時に何となく思ったそうです。

 

カンボジアの人々はどこに地雷が埋まっている土地では畑すら作ることが出来ず、貧困の中であえいでいました。

 

結局、高山さんが参加した半年の任務はあっという間に終わり、日本に帰国しました。

 

しかし、高山さんの心には大きな夢が生まれていたのです。

 

 

高山良二 目標へ向かって

高山さんは英会話の勉強を始め、現地で必要な事務処理をこなすためパソコンもマスター、さらに仏教国であるカンボジアを理解するため東大寺の僧侶資格も取得しました。

 

奥さんのさとえさんは当初、カンボジアに行きたいという高山さんをあまり本気にはしていませんでしたが、活動資金を出して欲しいと本気で頼まれ本気だと悟ったようです。

 

しかし、すでにカンボジアには3つの地雷処理団体が存在していました。あえて高山さんが行かなくてもと諭しても、高山さんは「自分が行きたいから行くんだ」と一歩も引かず、奥さんもそんな高山さんの堅い決意をサポートすることになりました。

 

2002年5月9日、自衛隊を定年退職した高山さんは、老後の蓄えから400万円を持ちカンボジアへと出発しました。

 

現地で高山さんは早速行動に移します。JMASという軍事知識が豊富な自衛官経験者が中核となって紛争地帯に残された地雷や不発弾の処理を支援する非営利団体の現地副代表に就任しました。

 

まだ出来たばかりの団体で、不発弾による事故を防ぐための啓もう活動と不発弾処理を行っていました。

 

日本から招いた専門家とともに不発弾処理に当たりました。処理できるのは一日3個程度だったそうです。

 

カンボジアに残されている不発弾は当時240万個ともいわれていました。予算が足りず、更に地中深くに埋められた400万から600万個の地雷には到底及びませんでした。

 

精神的に追い詰められた高山さんは2004年9月に心が折れ、精神異常になったそうです。カンボジアに渡って2年が過ぎたころでした。

 

茫然自失となった高山さんの姿を見て、家族はもうカンボジアに戻ることはないと思ったそうです。

 

意外な行動に

しかし、高山さんが起こした行動は・・・外務省に出向くということでした。

 

つてを頼って当時の外務大臣である塩崎恭久氏と面会することが出来、住民参加型の地雷処理という提案書を持って予算を出してもらいたいとお願いしにいったのです。

 

帰国してからどうしたらカンボジアの400万個を超える地雷を撤去できるのか・・・日本から連れてくる専門家は少なく到底追いつきません。

 

しかし、カンボジアの住民を専門家へと教育すればその道は開けるのではないかと考えたのです。

 

高山さんはどうしてそこまでしてカンボジアの人々を助けようと思うのでしょうか。

 

高山さんが自衛官になったのは先輩に誘われて入っただけで、志もなく恥ずかしいくらいいい加減だったそうです。

 

雇われ自衛官で家族を養えればいいと思っていましたが、PKO活動でカンボジアに渡り、幼い少年が不発弾で亡くなり、母親が泣き叫ぶ光景を目の当たりにし、自分は地雷撤去出来る技術があるのに、それを見て見ぬふりをするのはきっと後悔すると、後悔して人生を終えたくないと強く思ったのです。

 

そんな本気の想いを改めて聞き、奥さんはカンボジアに再び渡る高山さんを止めませんでした。

 

 

再びカンボジアへ

2006年6月、高山さんは再びカンボジアに渡りました。

 

発展途上地域の開発のため日本政府が行っている経済協力である政府開発援助から高山さんの行っている取り組みにも予算がつきました。

 

カンボジアで最も貧しい地域の一つで、現地住民を地雷探知員、通称、デマイナーを募集し正当な賃金を与え6週間の研修を行いました。

 

1. まず一人のデマイナーが幅1.5m 奥行40㎝の歯にの障害物を取り除き金属探知機を使えるようにします。

2. 金属探知機を行い反応がなければさらに40㎝前進

3. 金属反応があれば探知坊やショベルなどで調べる

4. 地雷が発見されれば標識で知らせ、専門家が爆破処理を行う

 

この様に、33人のグループで一か月に1ヘクタール対応可能で、3つのグループで3ヘクタール、1年間で30ヘクタールを超える土地が農地として使用可能になる計算でした。

 

高山さんたちは地雷撤去の基礎をみっちりと教育しましたが村人たちにとってデマイナーはあくまで生活をするためで復興への希望を抱くものは誰一人としていなかったそうです。

 

カンボジアへの支援と言えば、金と物が基本で住民たちには復興という発想がなかったのです。

 

爆発事故

そんな中、7人のデマイナーが活動中に死亡してしまったのです。亡くなった人の中にはデマイナーで知り合い結婚を控えたカップルもいたそうです。

 

きっと、これでデマイナーの仕事を怖がってやる人がいなくなってしまうのではないか・・・そう高山さんは思いました。

 

爆発事故の後、高山さんはこのままデマイナーの仕事を続けるかどうかのアンケートを取ったそうです。

 

79人のうち、辞めると答えたのは1人だけだったそうです。その一人も母親の介護のため仕方なく辞めるというものでした。

 

残ったデマイナーは死んでいった人のために、そして将来の子供のために前を向いて自ら立ち上がろうとしていました。

 

遺族の一人は、事故で息子を亡くなった日に高山さんは日本行きをキャンセルしお葬式に戻ってきてくれたと語ります。

 

この村で自らの危険を顧みずカンボジアの地雷除去に尽力する高山さんを恨む者なんて誰もいないと語ります。

 

奥さんも高山さんが帰国して、講演会などで忙しく駆け巡る日々を送る中受付をしてサポートをしていました。

 

どうしてそこまでして助けようとするのか高山さんの気持ちが分かる様な気がすると語る奥さんにカンボジアに一度来てくれと言われ、さとえさんもその気になっていた頃、ある悲劇が襲います。

 

奥さんに起こった悲劇

2010年11月、奥さんの様子がおかしいことに気づき病院に連れて行くと脳腫瘍を患っていることが分かりました。

 

医師からはかなり難しい手術になると言われました。とにかく生かしてほしいと懇願し、奥さんを支えるため所属していた団体に辞表を提出しました。

 

しかし、奥さんは意識を失い危篤状態となってしまいました。緊急手術が行われ、一命をとりとめました。

 

医者にも散々、危険な手術でどうなるか分からないと言われ自分を責め続けていた高山さんの奥さんは奇跡的に一命をとりとめ、後遺症も残りませんでした。

 

カンボジアの事を考えている高山さんに対して、さとえさんは戻る様に後押ししました。

 

2011年7月、NPO法人を設立し、さとえさんのために1年間のうち、4か月は戻れるように準備を整えたうち、

 

カンボジアが高山さんを必要としているのではなく、高山さんがカンボジアを必要としているのだと高山さんは語ります。

 

地雷を処理したい、その思いが高山さんの生き甲斐となっていたのです。

 

高山さんが設立したNPO法人の目的は地雷処理だけではなく、その名前は国際地雷処理地域復興支援の会でした。

 

カンボジアで地域住民と苦楽を共にすることで、地雷だけではなく、真の復興のために「教育」に重点を置き、道路の整備、井戸を作ったり、日本の企業を誘致し、雇用を促進しました。勤勉で丁寧なカンボジア人の仕事ぶりは好評なのだとか。

 

日本語やコンピューターを教えるクラスも開き、村にもっと大きな学校を作ろうと声が上がり、新しく4校が建設され、タサイ村は無学・貧困から脱却出来ました。

 

この村ではキャッサバ畑という芋を作っていますが、安く売っていては貧困から抜け出せないと付加価値をつけるため焼酎の蒸留所を作り、出来た焼酎はソラークマエと名づけられ販売されました。

 

こうして高山さんの活動はカンボジアの村の雇用を生み出しました。

 

高山さんがカンボジアで活動を初めて、早、17年。約4000個近くの地雷、不発弾を撤去したといいます。

 

最初は多くの犠牲者が出ていましたが、犠牲者も減り、人口は5000人から7000人にまで増えたそうです。

 

2019年5月9日、73歳になった高山さんの誕生日にはカンボジアのみんながお祝いしました。

 

カンボジアの人たちは愛国心、家族愛、地域愛、人間愛が強く、その中で自分たちは生かされていると謙虚に思っているのだそうです。

 

日本への留学生

高山さんの日本語学校出身者であるリスラエンさんは高校一年生で日本に渡りました。

 

現在、松山東雲女子大学で純文学を学ぶ三年生です。

 

日本とカンボジアの違いを訪ねると、日本は教育水準も高く街がキレイですが、カンボジアでは急速な発展によってごみ問題を抱えていて、現在の課題点であると語ります。

 

漠然と語学を学びに海外に留学する日本の学生とは違い、国を良くしたいという大きな志しで背負っているものの大きさや責任が違うように感じます。改めて教育の大切さを痛感します。

 

 

高山良二 本

高山さんは二冊の本を出版されています。

 

 

地雷処理という仕事

 

 

カンボジアの村の復興記

 

 

高山良二 まとめ

いかがでしたでしょうか。

 

家族との時間を犠牲にしながらもカンボジアの地雷除去だけでなくカンボジアの復興に貢献する高山良二さんをご紹介しました。

 

人にはそれぞれ生まれ持った役割や荷物があり、それを見つけ消化できるというのは本望でしょう。これこそ、死ぬときに後悔しない生き方と言えるのではないでしょうか。