弥助(やすけ)は戦国初の黒人侍!信長の知られざるストーリーとは?織田信長とアフリカ出身の黒人サムライのwikiプロフィールや画像は?

弥助(やすけ)という黒人武士が存在した!奴隷献上品が信長の家来に!戦国時代、信長は人種差別をしなかった!

以前、深イイ話や世界ふしぎ発見!でも取り上げられたことがある黒人サムライ弥助(やすけ)!今回12/13 (水) 18:55 ~ 21:00ウソでしょ!?ヒストリーで再び紹介されますね!大昔の戦国時代に黒人の人がサムライをしていたなんて、まるで嘘のような本当の話です!

弥助(やすけ)のwikiプロフィールや画像

名前:弥助 やすけ
別名:ヤスケ、弥介、彌介、彌助
弥助は、戦国時代の日本に渡来した黒人奴隷。戦国大名・織田信長への献上品とされたが、信長に気に入られ、その家臣に召し抱えられた黒人侍として伝えらている。 ウィキペディア
生まれ: ポルトガル
死亡: 1582年, 京都府 京都市

●出身はアフリカ・モザンビーク共和国(ポルトガル領東アフリカ)と言われている(フランソワ・ソリエが1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述)

●戦国大名・織田信長への献上品とされたが、信長に気に入られ、その家臣に召し抱えられた黒人侍として伝えらている

信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍/ロックリー・トーマス/不二淑子

黒ん坊 / 遠藤周作/著 // 【太田書店】【古本 古書】

織田信長のwiki情報

織田信長
おだ のぶなが
武将
織田 信長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国の古渡城主・織田信秀の嫡男。 ウィキペディア
生年月日: 1534年6月23日
生まれ: 愛知県 名古屋市 名古屋城
死亡: 1582年6月21日, 京都府 京都市 本能寺
配偶者: 濃姫 (1549年から)
子供: 織田信忠、 織田信雄、 織田信孝、 徳姫、 羽柴秀勝、 冬姫、 織田勝長、 さらに表示
兄弟姉妹: お市の方、 織田信行、 織田長益、 織田信包、 お犬の方

「切支丹国より、黒坊主参り候」信長と弥助の出会い

天正9年2月23日(1581年3月27日)、イエズス会のイタリア人巡察師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本にやってきたとき、当時、戦国大名であった織田信長に召使(奴隷/家庭内労働者)として献上するため連れてこられ信長に引き合わされた言われています。

『日本教会史』にはインドから連れてきた奴隷で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)であると記されているそうです。一方、『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳~27歳ほどで、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と描写されているそうです。

最初、信長は肌に墨を塗って黒くしていると思い信じなかったそうです。着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったため、彼の肌が黒い事に納得。ヴァリニャーノから黒人を譲り受けます。

京都は黒い肌の人がいると評判になり、物珍しさから見物客が殺到し喧嘩になったり大騒ぎになったと書簡に記述があるそうですね。

弥助(やすけ)という名前を貰う

黒人にとても興味を持った信長は、黒人に「弥助」という名前をつけ、正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしました。信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)にしようとしていたという記述もあるそうです。結構な好待遇で、私宅と腰刀を与えられて、時には道具持ちをしていたという記述も残っているそうです。家まで貰えるなんて凄いですね!

『家忠日記』の記述では・・・

天正10年4月19日(1582年5月11日)付け記述

「上様御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云」

原題訳:

「信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ」

これは信長が徳川領を通った時に家康の家臣である松平家忠が目撃したもので、日記の記述に弥助は下人や年季奉公人のような隷民ではなく扶持もちの士分であったとはっきり書かれているそうです。

本能寺の変

天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変が起こった時、弥助も本能寺に宿泊していました。明智光秀の襲撃にあい、主人が自害したのちも、後継者の織田信忠を守るため明智軍と長い間戦った末に投降します。

明智光秀は、どう処分するか聞かれ、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑せず南蛮寺に送られ一命を取り留めました。この明智光秀の言葉の真意は分かりませんが、解釈として、「弥助を差別していた」という説と、「異人だから可哀そうだと情状酌量した」という説があるそうです。

弥助のその後・・・

残念ながら、その後の弥助の消息については文献も残っておらず全く分かりません。実はこの時代に黒人の奴隷が多く連れて来られ、狩野内膳の『南蛮屏風』にも複数の黒人が描かれています。また。フロイスの『日本史』の沖田畷の戦いの記述の中にも大砲を使って活躍した有馬方の黒人が出て来るのですが、この黒人が主人を失った後に面識のあったとされる有馬家を頼ってやってきた弥助ではないかという説さえもあります。

 

世界ふしぎ発見の番組では弥助のルーツとされる「モザンビーク」と呼ばれていたモザンビーク島にはマクア人の男性は「ヤスフェ」という名前が多く、「弥助」という名前も「ヤスフェ」から来ているのではないかと推測されています。面白いことに、「キマウ」と呼ばれる衣装を着て踊る祭りがあり、日本の「着物」によく似ているそうです。今となってはミステリーですね。

信長のデスマスクとは?

愛知県瀬戸市定光寺町の西山自然歴史博物館には、信長と伝わるデスマスクが展示されているそうです。信長であるという確証はないのですが、弥助という黒人の家臣が持ち出した信長の首から作られたとも伝えられているそうです。

 

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